Episode 01

スポーツという名前の女の子

転校初日。彼女はただ、名前を言っただけだった。 けれどその一言で、教室の空気は走り出してしまった。

Opening Scene

黒板の前に立った日

新しい教室は、少しだけワックスの匂いがしました。 朝の光が窓から入り、黒板の左上には、日直の名前がまだ昨日のまま残っていました。 先生はにこにこしながら、転校生を教室の前へ呼びました。

女の子は、ゆっくり黒板の前に立ちました。 背筋を伸ばして、両手を前でそろえます。 その顔は、緊張しているようにも、何かを覚悟しているようにも見えました。

先生が言いました。

先生:「では、自己紹介をお願いします。」

女の子:「はい。」

彼女は小さく息を吸いました。 そして、これまで何度も言ってきた言葉を、今日もできるだけ普通に言いました。

女の子:「はじめまして。スポーツです。」

教室が、止まりました。

本当に、少し止まりました。 鉛筆の音も、椅子の音も、誰かがプリントをめくる音も、全部いったん消えました。 窓の外で鳴いていた鳥だけが、空気を読まずに元気でした。

一番後ろの席の男子が、小さく言いました。

男子:「……スポーツ?」

スポーツは、慣れていました。 その反応には、とても慣れていました。 だから彼女は、すぐに用意していた説明を続けました。

スポーツ:「はい。名前です。競技全般ではありません。」

教室の数人が、笑いをこらえました。 悪い笑いではありません。 ただ、名前と説明が、あまりにもきれいにぶつかったのです。

体育の先生が反応した

その時、教室の廊下側の扉が、すっと開きました。 そこに立っていたのは、体育の先生でした。 本当は隣の教室へ用事があっただけです。 でも「スポーツ」という言葉だけは、彼の耳に正確に届きました。

先生の目が、輝きました。

体育の先生:「今、スポーツと言ったか?」

スポーツ:「名前です。」

体育の先生:「なるほど。」

スポーツ:「たぶん、なるほどではないです。」

体育の先生は、胸の前で腕を組みました。 何か大きなものを発見した人の顔でした。 たとえば、校庭の隅に眠っていた伝説のスパイクを掘り出したような顔です。

体育の先生:「名前は、運命を先に知っていることがある。」

スポーツ:「私は、朝からその説に巻き込まれたくありません。」

担任の先生は、少し困った顔で笑いました。 クラスの空気は、もう普通の自己紹介ではなくなっていました。 どこかで、見えない笛が鳴ったような気がしました。

ミナだけが、少し違う顔をしていた

教室の真ん中あたりに座っていたミナは、みんなのようにざわついていませんでした。 彼女はノートの端に、小さく何かを書きました。

名前:スポーツ。
本人:困っている。
周囲:すでに暴走気味。

ミナは冷静な子でした。 ものごとを観察し、整理し、必要なら止める。 ただし、この時点で彼女はもう、今日の混乱は止めにくいと判断していました。

なぜなら、体育の先生がまだ扉の前に立っていたからです。

体育の先生:「球技大会は来月だ。」

スポーツ:「私の自己紹介と関係ありますか?」

体育の先生:「大いにある。」

ミナ:「まだ一分しか経ってないのに、展開が速い……」

クラスの数人が、急にスポーツを見る目を変えました。 さっきまでは「珍しい名前の転校生」だったのに、 いまは「球技大会に関係するかもしれない転校生」になっていました。

スポーツは、それに気づいてしまいました。

スポーツ:「あの、先に言っておきます。私は運動が得意ではありません。」

体育の先生:「謙虚だ。」

スポーツ:「違います。情報です。」

名前が先に走り出す

休み時間になると、話はさらに広がりました。 まだ誰もスポーツが走るところを見ていないのに、なぜか足が速いことになりかけていました。 まだ誰もボールを投げるところを見ていないのに、なぜか肩が強いことになりかけていました。

スポーツは、机に座ってお茶を飲みながら、静かに現実を守ろうとしていました。

男子:「スポーツさんって、何部だったの?」

スポーツ:「帰宅部です。」

男子:「帰宅のスピードが速いとか?」

スポーツ:「家に帰るだけです。」

別の女子が、やさしく聞きました。

女子:「好きなスポーツは?」

スポーツ:「観戦です。」

女子:「やるほうは?」

スポーツ:「応援です。」

そこへミナが来ました。 手にはノート。 目は冷静。 しかし、少しだけ笑っていました。

ミナ:「大丈夫。私はわかってる。」

スポーツ:「ありがとう。」

ミナ:「あなたは、名前に対して体力が足りてない。」

スポーツ:「わかり方が独特。」

放課後の小さな事件

放課後、スポーツはできるだけ静かに帰ろうとしました。 新しい学校の初日としては、もう十分に目立ちました。 今日は早く家に帰り、温かい飲み物を飲み、名前について誰にも聞かれない時間を過ごしたかったのです。

しかし校庭を通りかかった時、サッカーボールが転がってきました。

ボールは、まっすぐスポーツの足元へ来ました。 校庭の向こうから、誰かが叫びました。

男子:「スポーツ! 蹴って!」

彼女は固まりました。

その一秒は、とても長い一秒でした。 彼女の頭の中では、いろいろな考えが全力で走りました。 どこを蹴るのか。 強く蹴るのか。 そもそも右足でいいのか。 もし空振りしたら、名前との関係はさらに悪くなるのではないか。

そしてスポーツは、決断しました。

スポーツ:「安全第一。」

彼女はボールを拾い、両手で丁寧に男子へ返しました。

校庭が、また少し止まりました。

男子:「……手で?」

スポーツ:「確実性を重視しました。」

その時、体育の先生がどこからともなく現れました。 本当に、どこから来たのかわからない速さでした。

体育の先生:「判断が速い。」

スポーツ:「違います。」

体育の先生:「安全確認もできている。」

スポーツ:「違います。」

体育の先生:「キャプテン向きだ。」

スポーツ:「一番違います。」

その日の結論

帰り道、スポーツはミナと並んで歩きました。 ミナはクリップボードではなく、今日は普通のノートを持っていました。

ミナ:「初日にしては、いいスタートだったと思う。」

スポーツ:「どこが?」

ミナ:「誰もケガしてない。」

スポーツ:「基準が低い。」

夕方の道は、少しだけ涼しくなっていました。 スポーツはため息をつきました。 けれど、そのため息には、朝より少しだけ笑いが混ざっていました。

たしかに大変な一日でした。 名前を言っただけで期待され、否定しても謙虚だと思われ、ボールを手で返しただけで判断力を褒められました。

でも、ミナという友だちができました。 それは、少し悪くないことでした。

スポーツ:「明日は、普通の日になるかな。」

ミナ:「ならないと思う。」

スポーツ:「早い。」

ミナ:「球技大会の話、もう始まってる。」

スポーツ:「帰りたい。」

こうして、スポーツという名前の女の子の学校生活は始まりました。 彼女はまだ知りません。 明日、じゃんけんに負けただけで、チームキャプテンになることを。

Next Episode

次回、偶然のキャプテン。

球技大会のチーム決め。 スポーツは、できるだけ目立たずに終えるつもりでした。 しかし、じゃんけんは時に、人生より残酷です。

校庭で偶然キャプテンになってしまうスポーツ
Episode Notes

第1話の見どころ

自己紹介だけで世界が動き出す。 スポーツ本人の希望とは関係なく、名前が先に走り、 周囲の期待が物語を作り始めます。

1

名前の力

「スポーツ」という名前だけで、教室全体が勝手に彼女を運動の人だと思い始めます。

2

ミナの登場

冷静な観察者ミナが、スポーツの困り方を最初に理解します。

3

コーチ先生の暴走

どんな否定も、彼の中では才能の証拠になってしまいます。