寝坊から始まる疾走
スポーツはただ間に合いたかっただけ。けれど全力の朝は、誰かに見られていました。
ただ遅刻しそうだっただけ。 ただ校門まで全力で走っただけ。 けれど、その一瞬をコーチ先生が見てしまいました。
その朝、スポーツは目覚まし時計を見て、しばらく意味を理解できませんでした。 針は、いつもよりかなり進んでいました。 進みすぎていて、最初は時計のほうが間違っていると思いました。
けれど、時計は間違っていませんでした。 間違っていたのは、昨日の夜に「あと五分だけ」と言って布団の中で本を開いた自分でした。
スポーツ:「五分って、こんなに朝になるんだ……」
スポーツは飛び起きました。 制服を着て、かばんをつかみ、朝ごはんのパンを一枚だけ口にくわえました。 漫画みたいな朝です。 ただし本人に、漫画の主人公の余裕はありません。
玄関で靴を履こうとして、彼女は小さく止まりました。 靴ひもが、ほどけています。
スポーツ:「今じゃない。」
靴ひもは答えません。 ただ、そこにありました。 朝の敵として。
家を出た瞬間、スポーツは風になりました。 正確には、風になろうとしました。 実際には、かばんが肩で跳ね、パンが口から落ちそうになり、髪が顔にかかり、 かなり必死な人になっていました。
しかし、本人は真剣です。 遅刻だけは避けたい。 すでに名前で目立っているのに、遅刻まで追加されたら、 「スポーツは朝も競技している」みたいな変な印象が完成してしまいます。
スポーツ:「普通の生徒として、普通に、普通の時間に、普通に着く!」
言っている内容は普通ですが、走り方は普通ではありませんでした。 彼女は全力でした。 道角を曲がり、坂を上り、ランドセルではなくかばんを跳ねさせながら、 校門へ向かってまっすぐ走りました。
その姿を、校門の前に立っていたコーチ先生が見ていました。
コーチ先生:「……来たか。」
来ただけです。 遅刻しそうだっただけです。 しかし、コーチ先生の中では、もう少し大きなものが来ていました。
スポーツは校門をくぐりました。 息は上がり、前髪は乱れ、片方の靴ひもは危険な状態でした。 それでも、チャイムには間に合いました。
彼女は肩で息をしながら、勝ったような、負けたような気持ちで立ち止まりました。
スポーツ:「間に……合った……」
その時、横から拍手が聞こえました。
コーチ先生:「すばらしい。」
スポーツ:「何がですか。」
コーチ先生:「最後の加速だ。」
スポーツ:「最後の焦りです。」
コーチ先生は、真剣な顔でうなずきました。 彼の目には、遅刻ぎりぎりの生徒ではなく、まだ磨かれていない短距離走者が映っていました。
コーチ先生:「腕の振りは荒い。呼吸も乱れている。だが、気迫がある。」
スポーツ:「それは遅刻の気迫です。」
コーチ先生:「追い込まれた時、人は本質を見せる。」
スポーツ:「本質は、寝坊です。」
その会話を、少し離れた場所でミナが聞いていました。 彼女はクリップボードに何かを書きました。
スポーツが教室に入ると、すでに数人が彼女を見ていました。 校門前の全力疾走は、思ったより目撃されていました。 学校という場所では、良い話より変な話のほうが速く伝わります。
男子:「スポーツ、朝めっちゃ速かったって本当?」
スポーツ:「遅刻しそうだっただけ。」
女子:「でも、すごいフォームだったって。」
スポーツ:「フォームではなく、混乱です。」
ミナが隣の席に座り、静かに言いました。
ミナ:「噂になってる。」
スポーツ:「止めて。」
ミナ:「もう走ってる噂は止めにくい。」
スポーツ:「噂まで足が速い。」
休み時間になると、さらに状況は悪くなりました。 コーチ先生が教室の前に来たのです。 そして、なぜかストップウォッチを持っていました。
スポーツ:「その時計は何ですか。」
コーチ先生:「可能性を測る道具だ。」
スポーツ:「時間を測る道具です。」
昼休み、スポーツは校庭へ連れて行かれました。 本人は「連れて行かれた」と感じていましたが、コーチ先生は「才能が校庭に戻ってきた」と感じていました。 ものごとの見方には、かなり差があります。
校庭の端には、ミナと何人かのクラスメイトがいました。 球技大会のキャプテンであるスポーツの走力を確認する、という名目になっていました。 スポーツは、自分がいつの間にか企画になっていることに気づきました。
スポーツ:「私は企画ではありません。」
ミナ:「でも今日の昼休みの中心企画ではある。」
スポーツ:「言い方が事実でつらい。」
コーチ先生は白線の近くに立ちました。
コーチ先生:「二十メートルでいい。朝の走りを再現してみよう。」
スポーツ:「朝の走りは、追い詰められた人間の一回限りの作品です。」
コーチ先生:「芸術か。」
スポーツ:「違います。」
スポーツはスタート位置に立ちました。 ただ走るだけ。 そう思えば簡単なはずです。 しかし、見られていると、足というものは急に他人のもののようになります。
コーチ先生が手を上げました。
コーチ先生:「位置について。」
スポーツ:「心がついてません。」
コーチ先生:「よーい。」
スポーツ:「まだ心が。」
コーチ先生:「ドン!」
スポーツは走りました。
けれど、朝とは違いました。 朝は本当に遅刻しそうでした。 今はみんなが見ています。 しかもストップウォッチがあります。 そうなると、足は慎重になります。 慎重な全力疾走という、かなり難しい状態になりました。
そして、半分くらいのところで靴ひもがほどけました。
スポーツ:「やっぱり!」
彼女は転びそうになり、なんとか止まり、両手を広げてバランスを取りました。 見ていたクラスメイトが声を上げました。 ミナが走ってきました。
ミナ:「大丈夫?」
スポーツ:「靴ひもが人生の邪魔をする。」
コーチ先生は、ストップウォッチを見つめていました。 スポーツは嫌な予感がしました。
コーチ先生:「止まり方がいい。」
スポーツ:「そこですか。」
コーチ先生:「危機管理能力がある。」
スポーツ:「危機の原因は靴です。」
スポーツはベンチに座り、靴ひもを結び直しました。 今度は二重結びです。 それでも信用できないので、少し強めに結びました。
ミナは横に座り、クリップボードを見ながら言いました。
ミナ:「朝の走りを再現するには、条件が必要だね。」
スポーツ:「条件?」
ミナ:「寝坊、焦り、パン、チャイム直前。」
スポーツ:「再現しなくていい条件ばかり。」
コーチ先生は、少し離れたところで空を見上げていました。 まるで、まだ見ぬ大会の景色を想像しているようでした。
コーチ先生:「短距離は、心だ。」
スポーツ:「遅刻も、心臓に悪いです。」
クラスメイトたちは、スポーツをからかうというより、楽しそうに見ていました。 彼女が困っていることはわかる。 でも、その困り方が毎回、なぜか場を明るくする。 それが、少しずつクラスに伝わり始めていました。
スポーツは、自分がまた目立ってしまったことに気づきました。 けれど昨日や一昨日より、少しだけ嫌ではありませんでした。 みんなの笑いが、痛くなかったからです。
放課後、スポーツとミナは校門のそばに立っていました。 朝、スポーツが全力で走り込んできた場所です。 もう夕方で、校門の影が長く伸びていました。
スポーツ:「今日は、遅刻しそうだっただけなのに。」
ミナ:「それが陸上の話になった。」
スポーツ:「ならないでほしかった。」
ミナ:「でも、チームは少し盛り上がったよ。」
スポーツは少し考えました。 たしかに、昼休みの校庭には変な一体感がありました。 彼女が速かったかどうかは別として、みんなが笑って、心配して、少し近づいた。
それがキャプテンの仕事だと言われたら、やっぱり困ります。 でも、完全に違うとも言い切れませんでした。
スポーツ:「私は短距離の選手じゃない。」
ミナ:「うん。」
スポーツ:「キャプテンも、まだよくわからない。」
ミナ:「うん。」
スポーツ:「でも、みんなが笑ってたのは、ちょっとよかった。」
ミナ:「それは、かなりよかった。」
その時、校庭のほうからボールが転がってきました。 スポーツは、それを見て少しだけ身構えました。
そして、どこからか犬が走ってきました。
犬はボールをくわえ、何の迷いもなく走り去りました。
スポーツ:「今の犬、何?」
ミナ:「たぶん、次の事件。」
スポーツは、夕方の校庭を見つめました。 名前がスポーツであること。 キャプテンになってしまったこと。 遅刻しそうになっただけで短距離の話になったこと。 そして、ボールを盗む犬がいること。
普通の日は、まだ少し遠そうでした。
校庭に転がったサッカーボール。 固まるスポーツ。 走り出す犬。 そして、なぜか成立してしまう試合。
遅刻しかけた朝が、短距離走の伝説に変換される。 スポーツの世界では、日常の焦りさえ競技にされてしまいます。
スポーツはただ間に合いたかっただけ。けれど全力の朝は、誰かに見られていました。
焦り、乱れ、靴ひも。すべてが彼の中では才能の証拠になります。
最後に現れるボール泥棒。次の事件は、もう校庭を走り始めています。