ボールへの警戒
スポーツにとって、転がるボールは小さな事件の始まりです。
ボールが飛んだ。スポーツが固まった。犬が走った。 そして誰も予定していなかった試合が、なぜか成立してしまいました。
その日の昼休み、校庭はいつも通りににぎやかでした。 走る人、しゃべる人、日陰でパンを食べる人、何の目的もなく校庭の端を歩く人。 それぞれが、それぞれの昼休みを過ごしていました。
スポーツは、できるだけ日陰にいました。 理由は簡単です。 日陰は、競技になりにくいからです。
スポーツ:「日陰は安全。」
ミナ:「それ、格言みたいに言うこと?」
スポーツ:「校庭では、日陰が最後の避難所です。」
ミナは隣でお茶を飲みながら、クリップボードを膝に置いていました。 彼女は最近、スポーツの周辺で起きる出来事を、だいたい記録するようになっていました。 それは友情なのか、研究なのか、本人にもまだわかりません。
その時、遠くでサッカーボールが大きく跳ねました。
スポーツは、その音を聞いただけで少し肩を上げました。
ミナ:「まだこっちに来てない。」
スポーツ:「来る前に警戒するのが安全管理です。」
予感というものは、当たらなくていい時ほど当たります。 校庭の向こうで蹴られたボールは、誰かの足に当たり、角度を変え、 さらにもう一度跳ねて、まっすぐスポーツのほうへ転がってきました。
スポーツは固まりました。 ボールも転がりました。 ミナはその二つを見比べました。
男子:「スポーツ! 止めて!」
スポーツ:「名前で指示しないで!」
ボールは、ゆっくりではありませんでした。 でも速すぎるわけでもありません。 本当に止めようと思えば、足を出すだけで止められるくらいの速度でした。
けれどスポーツにとって、足を出すという行為は、かなり大きな決断でした。 足を出せば、ボールと関係ができてしまいます。 関係ができると、次に「蹴って」と言われます。 蹴ると、方向が発生します。 方向が発生すると、責任が発生します。
スポーツ:「責任が重い。」
ミナ:「まだボールが転がってるだけ。」
スポーツは、昨日の反省を思い出しました。 キャプテンとして大事なのは、安全第一。 そうです。 いま必要なのは、派手なプレーではありません。 確実な処理です。
彼女は、ボールの前に立ちました。 両足をそろえました。 そして、ボールを止めようとしました。
その瞬間、犬が来ました。
犬は、どこから来たのかわかりませんでした。 茶色と白の毛。 首輪。 まっすぐな目。 そして、サッカーボールに対する迷いのない情熱。
犬はスポーツの横をすり抜け、ボールをくわえました。 そして、そのまま走り出しました。
スポーツ:「え。」
ミナ:「犬。」
スポーツ:「犬だね。」
ミナ:「ボール持ってるね。」
スポーツ:「持ってるね。」
サッカーをしていた男子たちが、いっせいに叫びました。
男子たち:「ボール!」
犬は振り返りました。 その顔は、とても満足そうでした。 まるで自分がいま、試合の流れを正しく管理していると思っている顔でした。
コーチ先生が現れました。 もちろん、現れました。 こういう場面で彼が現れないことは、ほとんどありません。
コーチ先生:「流れが変わったな。」
スポーツ:「犬がボールを持って行っただけです。」
コーチ先生:「試合では、そういう瞬間がある。」
スポーツ:「これは試合ではなく、犬です。」
男子たちは犬を追いかけました。 犬は楽しそうに逃げました。 校庭の空気は、急に競技のようになりました。 誰かが笑い、誰かが応援し、誰かが「右!」と叫びました。
スポーツは、まだ日陰にいました。 しかし、キャプテンとしての視線が少しずつ彼女に集まり始めました。
女子:「キャプテン、どうする?」
スポーツ:「犬の判断を待つ。」
ミナ:「それは作戦ではない。」
スポーツ:「でも、犬のほうが主導権を持ってる。」
犬は校庭の中央へ走り、ボールを一度置きました。 男子たちが近づくと、またくわえて走ります。 その動きは、奇妙にリズムがありました。 まるで本当に、誰かにルールを教えているようでした。
コーチ先生は、感心した顔で言いました。
コーチ先生:「見ろ。相手を動かしている。」
スポーツ:「犬です。」
コーチ先生:「しかも、全員の視線を集めている。」
スポーツ:「犬です。」
コーチ先生:「司令塔かもしれない。」
スポーツ:「犬です。」
ミナはクリップボードに書きました。
しばらくして、犬はスポーツの近くまで戻ってきました。 ボールをくわえたまま、しっぽを振っています。 その顔は「次はあなたの番です」と言っているようにも見えました。
スポーツは犬を見ました。 犬もスポーツを見ました。 校庭中が、なぜか二人を見ていました。
ミナ:「キャプテン。」
スポーツ:「今、私にキャプテンを求めないで。」
ミナ:「犬がボールを返すかどうか、たぶんあなた次第。」
スポーツ:「そんな外交、聞いてない。」
スポーツは、ゆっくり犬の前にしゃがみました。 犬はボールをくわえたまま、じっとしています。
スポーツ:「あの、ボールを返していただけますか。」
校庭が静かになりました。 まさか犬に敬語で交渉するとは、誰も思っていませんでした。
犬は、少し首をかしげました。 それから、ボールをぽとりと落としました。
校庭から拍手が起きました。
スポーツ:「拍手されること?」
ミナ:「交渉成立。」
コーチ先生:「キャプテンシーだ。」
スポーツ:「犬にお願いしただけです。」
ボールが戻ると、男子たちはサッカーを再開しようとしました。 しかし犬は、まだ校庭の中央にいました。 ボールを見ています。 人を見ています。 そして、ときどき短く吠えます。
その吠え方が、なぜか笛のように聞こえました。
男子:「今の、ファウルってこと?」
別の男子:「犬、こっち見てるし。」
スポーツ:「犬にルールを聞かないで。」
けれど一度そう見えてしまうと、人間は弱いものです。 犬が吠えるたびに、みんなが一瞬止まります。 犬が走ると、試合の流れが変わります。 犬が座ると、なぜか休憩のような空気になります。
コーチ先生は、腕を組んで言いました。
コーチ先生:「審判だな。」
スポーツ:「違います。」
コーチ先生:「公平な目をしている。」
スポーツ:「ボールしか見てません。」
こうして、犬はその場で「審判犬」と呼ばれ始めました。
犬本人は、たぶん何もわかっていません。 ただし、ボールを追いかける情熱だけは本物でした。
その後の昼休みは、奇妙なサッカーになりました。 ルールはゆるく、審判は犬で、キャプテンのスポーツは基本的に安全確認を担当しました。
スポーツ:「転びそうな人、いったん止まって!」
男子:「キャプテン、作戦は?」
スポーツ:「犬より前に出すぎない!」
ミナ:「それ、作戦として成立してるのが不思議。」
不思議なことに、その作戦は少しだけ効きました。 みんなが犬の動きを見ながら走るので、急にぶつかる人が減りました。 ボールを無理に取り合うより、犬の予測不能な動きを笑うほうに気持ちが向いたのです。
スポーツは、いつの間にか声を出していました。 「危ない」「こっち」「犬が右」「一回止まって」 それはかっこいい指示ではありません。 でも、みんなには届いていました。
ミナはその様子を見て、小さく笑いました。
ミナ:「キャプテンらしくなってきた。」
スポーツ:「犬のおかげで?」
ミナ:「犬のおかげで。」
スポーツ:「複雑。」
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴りました。 みんなは少し汗をかき、少し笑い、少し名残惜しそうに校舎へ戻り始めました。
審判犬は、最後にもう一度ボールの近くへ来ました。 そして、スポーツの前に座りました。
スポーツ:「おつかれさまでした。」
犬は「ワン」と鳴きました。
それが返事なのか、判定なのか、ただの犬の声なのかは誰にもわかりません。 でも、みんなは笑いました。
コーチ先生は、深くうなずきました。
コーチ先生:「いい試合だった。」
スポーツ:「試合だったんですか。」
コーチ先生:「試合とは、人が本気になる場所だ。」
スポーツ:「犬もいました。」
コーチ先生:「名審判だった。」
スポーツ:「だから犬です。」
放課後、スポーツとミナは校門を出ました。 今日は走っていません。 ボールも飛んできません。 犬も、今のところいません。
スポーツは、少しだけ安心していました。
スポーツ:「今日は、犬が全部持っていったね。」
ミナ:「ボールも、話題も。」
スポーツ:「助かったような、巻き込まれたような。」
ミナ:「どっちも。」
スポーツは、少し考えました。 ボールが来た時、最初は怖かった。 でも犬が来て、みんなが笑って、いつの間にか自分も声を出していた。 それは、完全に悪い昼休みではありませんでした。
キャプテンという言葉は、まだ重いです。 でも、今日のスポーツは少しだけ、チームの真ん中にいました。 たとえその中心に犬がいたとしても。
スポーツ:「私、少しだけ指示してた?」
ミナ:「してた。」
スポーツ:「キャプテンっぽかった?」
ミナ:「安全係としては、かなり。」
スポーツ:「安全係キャプテン。」
ミナ:「悪くない。」
その時、後ろから声がしました。
グランマ・ビクトリー:「スポーツ!」
スポーツは、ゆっくり振り返りました。 そこには、買い物袋を持った祖母が立っていました。 名前をつけた張本人です。
ミナは、すぐにクリップボードを構えました。
ミナ:「ついに、由来の人が来た。」
スポーツ:「お願いだから、メモしないで。」
グランマ・ビクトリーは、にこにこしながら言いました。
グランマ・ビクトリー:「今日はいい顔してるね。やっぱり、その名前は正しかった。」
スポーツ:「その話、今します?」
グランマ・ビクトリー:「もちろん。名前には、物語があるのよ。」
スポーツは、少しだけ空を見ました。 普通の日は、やっぱりまだ遠そうでした。
なぜ彼女の名前はスポーツなのか。 ついに、名前をつけた祖母が語ります。 五輪の夢、金色の朝、そして家族会議の敗北を。
ボールを怖がるスポーツと、ボールしか見ていない犬。 その二人が出会った時、校庭の昼休みは、なぜかひとつの試合になりました。
スポーツにとって、転がるボールは小さな事件の始まりです。
ただボールを盗んだ犬が、なぜか校庭で審判のように扱われ始めます。
スポーツは勝利より安全を見ています。その姿が、少しずつチームをまとめていきます。